働くとは何か。なぜ私たちは働くのか。
この問いは、労働時間の長さやキャリアの悩みといった現代的な文脈に限らず、人類の歴史を通じて繰り返し問われてきたテーマです。狩猟採集の時代から農耕社会、古代文明、宗教社会、産業化、そしてグローバル化とデジタル化に至るまで、労働の意味は社会の変化とともに書き換えられてきました。
中山元氏の『労働の思想史』は、この長い時間軸を縦断しながら、労働に対する人間の考え方がどのように形成され、変遷してきたのかを丁寧にたどる一冊です。本書を読み進めると、私たちが当たり前のように前提としている「働くこと」の意味が、決して普遍ではなく、時代の思想的背景によって大きく左右されてきたことに気付かされます。
本記事では、各章の論を自分なりに噛み砕きながら、労働という概念が社会構造や思想の変化とともに、どのように再定義されてきたのかを確認し、改めて自分が労働とどう向き合っていくのかを考え直すことを目的とします。
本書の概要
以下Amazonより引用
なぜいま働くことは苦しいのか――。人類誕生からAIの進化著しい現代まで、哲学者の思想から労働の功罪の価値を明らかにし、生きる意味を問い直す画期的な思想史。
【目次】
第1章 原初的な人間の労働
第2章 古代の労働観
第3章 中世の労働観
第4章 宗教改革と労働――近代の労働観の変革(一)
第5章 経済学の誕生――近代の労働観の変革(二)
第6章 近代哲学における労働
第7章 マルクスとエンゲルスの労働論
第8章 労働の喜びの哲学
第9章 労働の悲惨と怠惰の賛歌
第10章 労働論批判のさまざまな観点
第11章 グローバリゼーションの時代の労働
【著者プロフィール】
中山元(なかやま・げん)
哲学者・翻訳家。1949年、東京生まれ。東京大学教養学部中退。古典の新訳を数多く手掛ける。
原初的な人間の労働
人類の最初の労働は、生きるために必要な最低限の活動でした。狩猟採集社会では、男性が狩り、女性が採集と育児を担うという分担が自然に成立していました。労働時間は短く、得た食料はすぐ消費され、余剰を蓄える仕組みはありませんでした。この段階の労働は、国家や社会の形成とは無縁でした。
旧石器時代の後期になると、狩猟の効率を求めて人々は集団で協力するようになります。この協働が大きな集団の形成と指導者の誕生につながり、のちの文明や国家の萌芽となりました。
新石器時代には農耕が始まり、定住と農作物の余剰生産が可能になります。余剰を蓄積し管理するために都市が形成され、灌漑(かんがい)などの大規模な共同作業が発達しました。
こうした社会の発展に伴い、労働は個人の生活を支える営みから、国家や支配層のために動員される活動へと変質します。農民は耕作だけでなく、公共事業や戦争にも動員されるようになり、生活のために働く以上の負担を強いられるようになりました。この構造は長く続くことになり、後の資本主義社会の登場まで大きく変わることはありませんでした。
古代の労働観
社会学者マックス・ウェーバーは、古代の国家を二つの類型に分けています。一つはメソポタミアやエジプトのように、王などが権力を集中させ、民衆から労働を徴発するライトゥルギー国家です。もう一つはアテナイのようなポリスで、官僚制を持たず、貴族が土地と奴隷を所有し、貿易によって都市を維持する仕組みを特徴としています。
古代ギリシアにおいて、アリストテレスは人間の行為を「制作、実践、観想」の三つに分類しました。このうち観想(哲学の本質を体現する活動とされ、感覚的な現象の奥にあるものを見ようとする営み)を最も高貴な活動とし、政治などの実践がそれに次ぐと考えました。制作に含まれる労働や仕事は低い価値に位置づけられ、身分制度の中でも下位に置かれる傾向が強く、西洋社会では聖職者、戦士、農民という三つの階級の序列として、中世に至るまで受け継がれました。
宗教的な伝統においても、労働は必ずしも肯定的には捉えられていません。旧約聖書では、神に背いたアダムとエバへの罰として辛い労働が与えられたとされます。この考え方は、自然との一体感や身体を動かす充実感といった労働の肯定的側面を押し込め、労働を避けるべきものとして扱う視点を形づくりました。
こうした古代の労働観は、社会構造・宗教・哲学と強く結びついており、労働が低く評価される基盤を作ったと言えます。
中世の労働観
中世のキリスト教社会では、労働に対する見方が大きく変化しました。とくに修道院の存在は、労働の意味づけを大きく転換させる重要な役割を果たしました。
修道院では、本来は観想に専念すべきはずの聖職者たちが農作業などの肉体労働に従事していました。修道士にとって、労働は成果を上げるための手段ではなく、自己を抑え、上位者に従う姿勢を養うための行為とされていました。労働の辛さは自己への執着を捨てる訓練とされ、心の清さを得るために欠かせない営みだと考えられていたのです。この考え方は、労働がもつ否定的なイメージの中に精神的な意味を見いだした重要な転換でした。
一方で、十字軍以降の社会発展によって農業生産が向上し、商業や都市が成長すると、従来は卑しいとされた職業にも一定の価値が認められるようになりました。背景には、厳しい労働に見合う報いがあるべきだという考え方が浸透したことがありました。これにより、労働そのものに価値があるという考え方が社会全体に広がっていきます。
しかし修道院では、別の問題も生まれました。修道士たちが禁欲と精神の浄化のために取り組んだ労働は、結果として富を生み出すようになり、本来の目的との矛盾を抱えることになったのです。労働は本来苦痛を伴う行為であり、清らかな精神を得るために実践されたものでしたが、その努力が皮肉にも経済的な成功をもたらし、修道院の姿を変えていく結果につながりました。
宗教改革と労働
中世を通じて労働の価値は徐々に肯定されるようになりましたが、近代の資本主義が成立するためには、労働そのものを積極的に評価する思想が必要でした。宗教改革、経済学の成立、そして近代哲学の展開は、それぞれ異なる角度から労働の意味を大きく書き換えていきました。
まず宗教改革では、ルターとカルヴァンが労働に新しい宗教的意義を与えました。とくにルターは、職業の高貴さ・卑しさを問わず、人が与えられた仕事に向き合うことそれ自体に価値があると説きました。労働は神に従って生きる姿勢の一部とされ、世俗の仕事にも宗教的な意味が与えられたのです。しかしルターの思想には、人々が社会の既存の身分秩序を越えることを認めない保守的な側面も残っていました。
この限界を超えたのがカルヴァン派の労働観でした。カルヴァンは予定説を掲げ、人が救われているかどうかは神が決めるとしましたが、信徒たちは救われている確信を得るために、勤勉で規律ある生活を送るようになります。労働に励み、消費を抑え、生活を合理的に整えることが信仰の証とされ、禁欲的な労働が日常生活に深く浸透していきました。
こうした労働観の変化は、市民社会の成立と資本主義の発展に大きく寄与しました。禁欲や勤勉が日々の行動規範となることで、生産性は高まり、貯蓄と投資が拡大し、社会に富が蓄積されていきます。中世の修道院と同じく、精神的な目的で始まった禁欲的な労働が、結果として経済的な豊かさを生むという逆説もここで生じました。
経済学の誕生
宗教改革を経て労働が肯定的な価値を持つようになったあと、経済学という学問がどのように労働を扱い始めたのかを描いています。近代の市民社会が成立する過程で、労働そのものの概念と労働者の位置づけは大きく変わりました。とりわけアダム・スミスが経済学を確立したことで、労働が富の源泉として明確に理論化されるようになります。
スミス以前の経済思想をみると、イギリスの重商主義では労働者が怠惰で教育すべきではない存在とみなされ、低賃金と抑圧によって働かせるという考え方が主流でした。これに対し、フランスの重農主義は農業という自然に働きかける領域だけを価値の源泉と捉え、産業労働を従属的なものとして扱いました。これらの理論では、価値を生み出す主体と生み出さない主体が大きく分断されていたのが特徴です。
スミスはこの分断を根本から改めます。人がそれぞれの得意分野で働き、その成果物を分業と交換によって社会に供給するという視点から、あらゆる領域の労働に価値があると捉え直しました。人々の利己心が交換を通じて調和するという理解のもと、社会を動かす力の中心に労働を置いたのです。こうした考え方は、商業社会の成り立ちを説明する基盤になり、現代の経済学が労働を富の源泉とみなす枠組みへとつながっていきます。
またスミスは、価値を生み出す存在として労働者を尊重したため、賃金は低く抑えるべきではないと主張します。国の富が増えれば賃金も上がるという観察から、労働者の生活が向上することは社会全体の利益と矛盾しないと考えました。労働が生産の中心である以上、その担い手である労働者の待遇改善はむしろ不可欠だという発想です。
近代哲学における労働
近代になると、労働は単なる生活手段ではなく、社会の成り立ちそのものを支える根源的な営みとして捉え直されるようになりました。従来の社会思想では、人間は公的な善を追求する道徳的存在とされてきましたが、近代の思想家たちはこの前提を疑い、人間をまず欲望をもつ個人として分析し直します。そこから、労働は個人が自立し社会を構築するための重要な行為として浮上してきました。
この視点の転換によって、労働は「誰がどのように何を所有するのか」という社会の基本構造と結びついて理解されるようになります。所有権、国家、法といった制度の正当性を説明する際にも、労働が基礎に据えられるようになりました。労働は価値を生み出す行為であり、そこから社会秩序が形成されるという考え方が広がっていきます。
さらに近代思想では、労働は個人だけの問題ではなく、分業や協力を通して社会全体を動かす仕組みとして捉えられるようになりました。個人の行為が相互に結びつくことで文明が成り立つ、という視点が定着していきます。つまり近代の哲学者たちは、労働を人間の本質的な営みとして再定義し、社会や制度の根本に据え直すことで、労働という概念を大きく再構築していったのです。
マルクスとエンゲルスの労働論
近代に入ると、労働は人間が動物とは異なる存在になるための核心的な営みとして位置づけられるようになりました。マルクスやエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、道具を使い、生産物を生み出す過程そのものが、人間性や社会を形成する基盤だと考えました。労働は単に生活を支える手段ではなく、人間が人間であることを可能にする行為として理解されたのです。
一方で、19世紀の資本主義社会における現実の労働環境は、この理想とは大きくかけ離れていました。工場労働は長時間かつ過酷であり、子供を含む多くの人々が生存を目的として働かざるを得ませんでした。分業と機械化が進むことで、熟練を要する仕事は単純作業に置き換えられ、労働者間の競争は激化していきました。こうした実態は、労働が本来的にもつ創造性や自己実現的な側面を奪うものとなっていました。
マルクスはこの状況を、単なる搾取の問題としてではなく、人間と労働の関係そのものが断たれていく「疎外」の問題として捉えました。労働の成果が自分のものにならず、生産過程をコントロールできず、自分自身の能力とも乖離し、他者との関係も分断される。この四つの疎外を通じて、労働者は人間性を十分に発揮できない状態に置かれているとマルクスは指摘しました。労働を人間の本質的営みとして捉えるからこそ、資本主義における疎外は重大な問題になると考えたのです。
労働の喜びの哲学
マルクスと同時代、あるいはその直前の思想家たちは、労働の問題を資本主義批判だけでなく、「社会をどう組み替えるか」という観点から捉え直そうとしていました。彼らに共通しているのは、労働を単なる苦役や搾取の対象としてではなく、人間と社会を成り立たせる根本的な営みとして再構築しようとした点です。
サン=シモンは、社会を支えているのは貴族や聖職者ではなく、生産に従事する「産業者」であると考えました。産業者とは、農民や労働者、技術者、商人など、実際に社会を動かしている人々の総体です。彼は、社会はこの産業者を中心に再編されるべきであり、労働は支配されるものではなく、社会的に尊重されるべき活動だと主張しました。ここでは、労働はもはや下位の行為ではなく、社会の正統性を支える基準として位置づけられています。
ロバート・オーウェンは、労働の過酷さや堕落の原因を、人間の性格ではなく環境に求めました。工場労働の現場を改善し、教育や生活条件を整えれば、人間は協調的に働けるようになると考えたのです。彼にとって重要だったのは、労働を競争や恐怖によって強制するのではなく、共同体の中で意味ある活動として成立させることでした。労働は、人間を摩耗させるものではなく、環境次第で人間を成長させる営みに変わりうるとされたのです。
一方フーリエは、人間の情念そのものに注目しました。彼は、人間が労働を苦痛と感じるのは、労働が人間の欲望や性向と切り離されているからだと考えました。人それぞれの情熱に応じた仕事を組み合わせれば、労働は苦役ではなく魅力的な活動になるという発想です。ここでは、労働は義務ではなく、人間の内面と結びついた表現行為として構想されています。
この三者に共通するのは、労働を単に否定するのではなく、労働のあり方そのものを問い直そうとした点です。労働は搾取の場にもなりうるが、社会の設計や制度、価値観が変われば、人間らしさを回復する基盤にもなりうる。この章が伝えているのは、労働をどう「なくすか」ではなく、労働をどう「再構築するか」という思想史上の重要な転換です。
労働の悲惨と怠惰の賛歌
この章がまず示すのは、「労働は善である」「働くこと自体が人間を高める」という近代以降の労働倫理が、必ずしも普遍的な真理ではないという点です。ラファルグやラッセルは、労働の尊さを疑い、むしろ働きすぎこそが人間を不幸にすると主張しました。技術が発達し、生産力が十分に高まった社会においても、人々が過剰に働き続けるのは、労働を美徳とみなす思想に縛られているからだという問題提起です。ここでは、労働から解放された自由時間こそが、人間らしい生の条件であると強調されます。
一方でこの章は、怠惰の賛歌だけでは終わりません。シモーヌ・ヴェイユは、労働の非人間性を理念ではなく、実体験として描き出しました。工場労働は、人間を疲労させ、恐怖と屈辱の中に置き、主体性を奪うものであると彼女は記します。労働は自己実現どころか、人を「物」のように扱う装置になっている。この冷酷な現実認識によって、労働を安易に賛美する言説の空虚さが浮き彫りにされます。
しかしヴェイユは、革命によってすべてが解決すると考えたわけではありませんでした。労働の過酷さは制度を変えても完全には消えない以上、それを少しでも人間的なものにする努力が必要だと考えます。労働者の尊厳を支え、発言の場を与え、管理者との相互理解を促す。ここでは、労働を理想化するのでも、全面的に否定するのでもなく、現実の制約の中で人間性を守る視点が示されています。
さらに章の後半では、テーラー主義やフォーディズムから現代の労働システムへの変遷が描かれます。効率化と生産性向上は社会を豊かにした一方で、労働者の自発性や誇りを奪ってきました。その反省から、チーム制や自律性を重視する仕組みも登場しますが、それもまた生産性向上の手段である点は変わりません。この章が最終的に問いかけているのは、労働を肯定するか否定するかではなく、労働が人間を生かすのか、すり減らすのかという根本的な問題です。労働とどう距離を取り、どう向き合うかという問いは、今なお私たちの前に残されています。
労働論批判のさまざまな観点
この章の中心にあるのは、労働を人間の本質や善としてきた近代的価値観そのものへの疑問です。ニーチェは、労働は人間の類的なあり方ではなく、むしろ人間を低位にとどめる営みだと捉えました。ここでは、労働を通じて自己を形成するというヘーゲル的な見方は否定され、労働は主体的な行為ではなく、強いられた受動的な状態として位置づけられます。
ニーチェの主奴論では、労働する者である奴隷は、行動によって状況を変えることができない存在として描かれます。その結果、奴隷は現実を変える代わりに、心の中で価値の逆転を行います。力を持たず行動しない自分たちを善とし、力を持ち行動する高貴な者を悪とみなす。この価値転倒は、現実の行為に裏打ちされたものではなく、怨恨から生じた内面的な自己正当化にすぎないとされます。
この内面的な価値転倒を社会的な道徳として定着させた存在として、ニーチェは宗教的聖職者の役割を指摘します。苦しむ者、労働を強いられる者が善とされ、力を持つ者が悪とされる道徳が形成されることで、禁欲と労働は神聖なものへと変えられました。この流れは、労働を倫理的義務とみなす近代的労働観の思想的源流の一つとして位置づけられます。
後半では、この労働批判がフロイトによって心理学的に引き継がれます。フロイトは、文明と技術が発達しても人間が幸福になっていない点に注目し、労働を欲望の充足を断念させるための社会的装置として捉えました。労働は社会の安定には寄与する一方で、人間の本性に反する面を持ちます。ただし、自ら選んだ仕事の中で欲望を昇華できる場合に限り、労働は例外的に幸福への道となりうる。この章は、労働を無条件に肯定するのではなく、その心理的・道徳的な代償を見据える視点を提示しています。
グローバリゼーション時代の労働
この章では、近代以降の労働論が見落としてきた労働のかたちに光を当てています。資本主義社会では、賃金が支払われる生産活動だけが価値ある仕事とみなされ、その前提を支える多くの営みは評価の外に置かれてきました。家事労働や通勤、資格取得のための学習といった活動は、労働を可能にする不可欠な条件でありながら、仕事とは認められてきませんでした。
イヴァン・イリイチがシャドウワークと呼んだのは、まさにこうした無償で不可視化された労働です。資本主義以前であれば生活そのものとして肯定されていた行為が、賃労働を成立させるための補助的条件と位置づけられたことで、構造的に劣った活動とみなされるようになりました。ここでは、価値とは何か、労働とはどこまでを指すのかという問いが、あらためて突きつけられています。
さらに現代では、感情そのものが労働資源として動員されるようになりました。ホックシールドが提起した感情労働の概念は、笑顔や共感といった内面的な働きが、企業利益のために管理・要求される状況を明らかにします。感情を演じ続けることは、人格の深い部分に負荷を与え、自己の感情が自分のものなのか分からなくなる危険をはらんでいます。
加えて、承認欲求を利用した承認労働や、個人化されたギグエコノミーも、この章の重要な論点です。自律や自由、自己実現といった言葉は、労働者の主体性を引き出す一方で、失敗や過重な負担を自己責任として引き受けさせる装置にもなりえます。この章が示しているのは、グローバル化した現代社会において、労働はより見えにくく、より内面にまで入り込みながら、形を変えて私たちを拘束しているという現実です。
書評
これまでの各章の論を踏まえると、本書は労働を「社会構造や価値観と深く結びついた歴史的概念」として捉え直す視座を与えてくれます。労働は常に善とされてきたわけでも、単純に搾取の対象であったわけでもなく、その時代ごとの思想や制度のもとで意味づけが変化してきたことが、本書を通じて理解できました。
本書が示すように、労働のなかに創意工夫や自己実現、楽しさを見いだす可能性があるという議論にも一定の理解は示しますが、私自身、現代の労働については、株主や経営者、取引先といった「他者の利益のために役務を提供する行為」として捉える傾向があります。その意味では、労働は本質的に自分のためではない活動であり、労働に対して否定的に感じています。
その一方で、もし自らがやりたいと感じる活動そのものが、結果として他者に価値を提供し、金銭や承認といった報酬につながるのであれば、労働に対する捉え方は大きく変わるのではないかとも考えます。義務として課される役務ではなく、自発的な関心や問題意識から生まれた行為が対価を伴う形で社会と接続される状態こそが、私にとっての理想的な働き方であり、労働に肯定的な意味を見いだせる条件なのだと実感しました。
本書は、労働を一面的に評価するのではなく、多面的に捉え直すための思考の道具を与えてくれる点において、現代を生きる読者にとって価値の高い一冊であると感じました。その一方、本書はキリスト教を中心とした西洋文化を主眼に置いていますが、宗教的背景や共同体のあり方が異なる日本では、西洋とは異なる文脈で整理されるべきだと感じました。日本の労働観の変遷をあらためて辿ることは、本書の議論を相対化し、現代の働き方を考えるうえでの手がかりになると感じました。

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